神様と信仰心


神憑りを見学しに行ったとき、一番前の列に座らせていただいて、間近でその様子を見ることができたのですが、最初に、修行中の方の神憑りも拝見できました。

こういうのは初めてだったのでよく分からなかったのですが、口を開くことがなく、ガクガクと震えた状態がしばらく続いた後、ギブアップしていました。

私の前を通るときに、「今日はきつい」とつぶやいていて、調子の良し悪しとか、もしかしたら場所の違いとかもあるのかもしれません。

連れて行ってくれた先生は、山の上こそ、彼らの本領発揮だと言っていました。
それでもやはり、神憑りの間は相当体力を消耗するそうで、長時間は出来ないそうです。

神憑りが本物かどうか、色々見極める方法もあるそうで、1時間など、長時間にわたっての神憑りや、目がきょろきょろ動くのは、ちょっと違うそうです。

真贋はともかく、それで癒されたり、救われる人がいるのならば、それでも良いのかなとも思いますが、やはりせっかくなら、本物のご神託が欲しいかも。

今回、すぐ後ろに座っていたおばあさんが話しかけてきてくださって、休憩時間などに、ご自身の神秘体験を聞くことが出来ました。

もともと御嶽山の信者の家系で、信仰心が強いということでしたが、本当に人生で追い詰められたときは、神様が救ってくださるというのをはっきりと感じたそうです。

まず、胆石で入院したときは、半分眠ったような状態で、御座(神憑りを行う場所)が思い浮かび、そこに自分が横たわっていたそうです。
そして、神様の手だけが出てきて、自分のお腹に手を当てていた映像が見えたのだそうです。

次に、癌の治療で入院したときは、白い鳥が降りてきて、自分の事を包み込み、去るときには、灰色に変化していたのだそうです。

それは悪い部分を吸収してくれたという事なのでしょうか、と私がたずねると、そうだと思うんだけど、普通の人が聞いたら頭がおかしいと思うかもしれないとおっしゃっていました。

今は2度の手術も終わり、元気になったということで、その御礼を神様に伝えにいらっしゃっていました。
お願いするだけじゃなくて、御礼をするのが大事だと思うということでした。


また、終了後の直会(ご馳走を頂いてしまいました)のときに、神職を目指しているという方が、自分は霊感が全くないが、人に何か相談を受けたときに、どういう風にアドバイスすればよいか悩んでいるというのを中座の方に相談されていました。

中座の方がおっしゃるには、今まで生きてきた経験を元に話してあげるだけでも、相手にとってはプラスになるし、そのとき自分が出来る事を頑張っているうちに、別の何かが開けてくるものなのだそうです。
日々のお勤めの努力を続けているうちに、必ず報われるし、神様に感謝する気持ちがあれば、不思議な事に、より守護を頂けるんですという事でした。


なんだか、日本人が失いつつある信仰心であるとか、感謝の気持ちとか、そういうものに触れる事ができて、すごく癒されました。

宗教というと、お金が絡んでたり、怖いイメージがあるせいか、日本は自称無宗教と言う人が圧倒的に多いのですが、本来、日本人の中にはこういうものが自然に生きているわけで、生かしていただいているとか、目に見えないものに感謝する気持ちや、信仰心というのは、日本人の美徳であり、忘れてはいけないものだなと感じたのでした。

あと、面白かったのは、新興宗教とかだと、神を降ろすような立場の人って、えらそうにいばっているようなイメージですが、中座の人は、信者さんより上の立場という事は全くなく、ちゃん付けの愛称で呼ばれて親しまれていました。
ただ神の言葉を伝えるための道具としての位置づけなのかもしれません。